「大切」に潜む、不純物
最近、大切、とか、特別、っていう言葉についてすごく考えていました。
みんなの周りにもヒト・モノ・コトでそれぞれあると思う。
大切な人、大切な物、大切にしていること。
そういったタイセツをみんな心の中に持っている。
ただ、それらをどう扱うかは人によって違う。内に秘める人、表に出す人。
今までの僕は、このタイセツたちを言葉にして表に出す方でした。
表に出す、つまり誰かに伝えることが自己開示になり、価値があることだと思っていたから。
でも、最近あるきっかけがあって考えた。
本当の意味での大切、って何なんだろう。
Twitterを開けばそこに広がる相互承認の世界。
仲間同士、会ったことはないけどTwitterでは繋がっている人同士で投げかけ合う、大切な人、特別な人。
本当にそうなんだろうと思う。その人にとっては。
ただ、何なんだろうこのモヤモヤは。
自分も積極的にその言葉を発信していながら考えていました。
そして、気づいた。
誰かを対象として投げる「大切」という言葉には「不純物」が混じるんじゃないか。
最初は大切、特別という言葉の氾濫によって言葉自体の「価値が下がっている」。
そう考えていました。
ただ、そんな俯瞰した一般論的な話ではない。
大切だよ、と伝えられた相手の気持ちを考えた。
もしそれが一方通行だったら。
もちろんお互いに大切だと思っていることもあるでしょう。
ただ、その大切が持つ「熱量の大きさ」は違うんだろうと思う。
返報性の原理。
人間は他人から何らかの施しを受けたら、お返しをしないと申し訳なくなる心理現象。
大切だよ、と相手に伝えることに「大切だと想って欲しい」という期待・エゴといった、「不純物」が混じっていないだろうか。
混じっていなかったとしても、相手はそれを感じるんじゃないか。
それはモノだったとしても、コトだったとしても。
そんなつもりなくても「それが欲しい」「これが大切だからわかって」のように。
感じ取ったとしたら。
相手は同じく、大切だと思っているよ、と返してくれるかもしれない。
はたまた、その言葉の重みに圧を、プレッシャーを感じるかもしれない。
でももし、相手が自分に合わせて大切という言葉をあなたの熱量よりかなり低い温度で量産し、仕方なく返していると知ったら…
お互い悲しい。
大切だよって言葉で伝えることで、
相手に束縛という鎖を巻きつけているようだと感じた。
だから。
僕は特定の相手を指して、
大切や特別という言葉を表に出すことをやめることにした。
相手がそれを求めてくれるならいい。でも、本当に大切ならこちらからはそんなことしなくていいんだもの。
自分が大切だと想っている人への想いは行動に必ず表れるから。
多くを語らず、体現していくことにした。
僕が好きなアドラー心理学における中心的な考え方「課題の分離」。
自分の課題と他者の課題を切り分けて考える
自分が相手のことを大切だと想うことと、
相手が自分を大切だと想うことは別である、ということ。
どんなに自分が求めても、相手が自分をどう思うかは相手が決めることであってコントロールできない。
だったら、やめましょ。ってこと。
自分は自分の人生を生き、相手は相手の人生を生きている。
本当にその人のことが大切なのであれば、自分のスタンスだけ確立させればいい。
そう思う。
ただ、その大切な人が幸せであることを願い、何があってもその人のことを支える。
そういう行動をとり続ける。相手に求めない。
たとえ言葉にしていなくても、行動から相手にそれが伝われば、相手の人生と自分の人生が重なる瞬間、重なる時期、一緒にいられるんじゃないか。
そう、思えるようになりました。
大切という想いを心の中で磨き、不純物を削ぎ落とす。
もし。
今後誰かに大切だよって言葉で伝えることがあるとしたら、お互い面と向かってお互いの熱量が同じだと確認出来たとき、自然とお互い口にするんだと思う。
そのときが本当の意味でこの「大切」という言葉が輝きを放つとき。
それまで、大切な人たちへの想いは内に秘め、行動で体現し、日々磨き続けていこう。
そう決めました。
僕の今後の人生にとって、貴重な気づき。
最後に一度だけ使うね。
気づくきっかけをくれた大切な人へ、最高の感謝を伝えたい。
ありがとう。
shogo